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事務所だより 2020年12月号

今年も残すところ1ヶ月となりました。
新型コロナウイルスの影響で外出自粛などがあり、自宅にいることが多く、余裕があったように思ったのですが、フタを開けてみれば例年以上に早く1年が過ぎたように感じます。

オリンピックは開催できるのか?
来年は、どんな年になるのでしょうか。

事務所だより12月号をお送りします。
よいお年をお迎えください。

スーパーコピー 代引き安心して購入できました。スタッフの方もとても丁寧な対応に、分かりやすい説明本当に感謝します。発送も早くて素晴らしかったです。今後もよろしくお願いします。

この時計はニューヨーク、ロサンゼルス、東京、パリの時刻を表示する4つのインダイヤル(タイムゾーン)を装備。各インダイヤルおよびメインダイヤルは、原色やパステルカラーにより大胆に彩られていた。ムーブメントには、ETA社製クォーツを採用。直径40mmと47mmの2サイズが展開され、2002年のプレスリリースでは、この時計は性別を超越したモデルであると説明されている。ファイブタイムゾーンは、SSやさまざまなプレシャスメタルに加え、ベゼルにダイヤモンドをあしらったものやプレーンなベゼルを持つバリエーションも存在する。極め付けには、ケースからダイヤル全体を宝石で埋め尽くしたオプションまで用意されていた。すべてのモデルには、簡単に交換できるストラップが付属。プレーンなモデルには4つのポリウレタン製ストラップとデプロワイヤントバックル、ダイヤモンドセットモデルには2種類のアリゲーターストラップ、そして総ダイヤモンドダイヤルのモデルには4種類のアリゲーターストラップがセットになっている。アラボ氏の会社としては初のウォッチコレクションとなり、価格は5500ドル(約72万3000円)から設定されていた。

ファイブタイムゾーンは、現在57歳のアラボ氏が1978年、13歳のときに父親から譲り受けた時計がモデルになっている。「それは、私にとって初めての時計でした。2つのタイムゾーンに2つのムーブメント、そして真ん中には世界地図が描かれていました。それが、ファイブタイムゾーンを作るきっかけになったのです。今でも持っていますよ」と彼は私に語った。

ヒップホップ旋風、その中心地への旅は1979年にアラボ氏が家族とともにウズベキスタンからアメリカに移住したことから始まった。17歳のときすでに、彼は6カ月間のジュエリー製作のトレーニングプログラムに参加していた。1986年、当時21歳だったアラボ氏は、自身のラグジュアリーブランドを立ち上げる。それこそが、自身の名を冠したジェイコブである。

“宝石商ジェイコブ”は世界的に有名なミュージシャンのために、ダイヤモンドをあしらったオーダーメイドの装飾品を作り続けてきた。彼は当時、大物セレブリティのほぼすべてに作品を販売し、身につけさせたのだ。その結果として、ダイヤモンドと鮮やかなファンシーストーンが多くの人々の目に触れることになった。豪華なジュエリーは、もはやエリザベス・テイラーやリベラーチェ(米ピアニスト)、アッパーイーストサイドの遺産相続人だけのものではなくなったのだ。アラボ氏は、BAPEの創始者でポップスターのNIGO®(こと長尾智明氏)やファレルともコラボした。彼らはカラーダイヤモンドを使用し、ジュエリーデザインの新しい境界線を押し広げることにより、男性にとってのジュエリーに変革をもたらした人物である(宝石をセットしたG-SHOCKは有名だろう)。アラボ氏はジュエリー文化というひとつのカテゴリー、その本質を作り上げたのだ。

とりわけアラボ氏はマーケティングの天才であり、ニューヨークで生まれ育ったエクアドル移民2世のティト・カイセドの後継者だった。彼はカナルストリートに最初の宝石店を設立し、その後1984年に47番街のダイヤモンド・ディストリクトに移転する。「アラボの前にはティトがいましたが、顔と名前が一致しません」と語るのは、クリエイティブコンサルタントのフェリス・ビューラー氏である。「ティトもそれなりに知られた人物でしたが、宝石商ジェイコブは人格者でしたからね」。

最初の時計が発売されるころには、“宝石商ジェイコブ”はすでに彼自身のジュエリーで伝説を築いていた。90年代初頭、RUN DMCとスリック・リックはバカでかいロープチェーンをまとい、90年代の終わりにはショーン・“パフィ”・コムズとジェイ・Zがプラチナとダイヤモンドを身につけていた。それらは新しい時代のスタイルであり、始まりを47番街にのカプラン・ダイヤモンド・エクスチェンジにあったアラボ氏の小さな工房まで遡ることができる。

ビギー・スモールズとジェイコブ・アラボ氏。Image: Courtesy of Jacob & Co.

今では想像するのも難しいが、この時点では伝統的なラグジュアリー界はヒップホップ文化を受け入れていなかった。ヴァージル・アブローがルイ・ヴィトンのクリエイティブディレクターを務め、エイサップ・ロッキーがディオールのキャンペーンのスターに、ヤング・サグがカルバン・クラインの顔に、ジェイ・Z自身がティファニーのブランドアンバサダーになるよりずっと前の時代のことである。47番街はヒップホップ勢の砦でもあったのだ。アラボ氏は47番街の有名人の顧客リストを手に入れた最初の宝石商というわけではなかったが、関係を発展させ、維持することにかけては最高の人物だった。彼は、顧客が手持ちのカスタムピースを新しい作品と交換することを許可し、一点物のデザインは二度と複製しないという約束を常に守っていた。『Ice Cold』、『ヒップホップジュエリーの世界(原題:A Hip-Hop Jewelry History)』の著者であるヴィッキー・トバク氏は電話でのインタビューで「彼はヒップホップコミュニティとの共存を意識していました。彼だけの出世物語というわけではないのです」 と私に語った。

1999年には、ニューヨーク・タイムズ紙がアラボ氏を “ヒップホップ界のハリー・ウィンストン”と呼ぶほどの影響力を持つまでになった。彼は数え切れないほどのラップのリリックに登場し、テレビゲーム『Def Jam』にも出演している。このゲームは、ヒップホップ界のスターたちが、ジェイコブのダイヤモンドジュエリーを買うための資金を稼ぐために競い合うものだ。アラボ氏が世に出る以前は男性がダイヤモンドを身につけることはなかったが、彼が名声を得たあとではそれもさま変わりした。2003年、オックスフォード英語辞典に“bling(派手な、ケバケバしい)”という単語が追加されたのは偶然ではない。BGとキャッシュ・マネー・ミリオネアーズが歌った楽曲 『Bling Bling』が語源であり、彼らは男性がダイヤモンドを身につける様子を歌詞にした。しかしそれは、ジェイコブの存在なしではあり得なかったのだ。

◎事務所だより 2020年12月号



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